9月に入って、一週間が過ぎた。
山下は東海林医院の紹介で、街の総合病院で検査を受けていた。 結果は異状なし。一過性のものだろうとのことだった。 この結果に、ひとまず胸を撫でおろした直希だったが、その後症状を抑える為にどうするべきか、スタッフ会議で何度も話し合った。 その結果、山下が一番興味を持つ映画で試してみようとの結論になった。「山下さんって、かなりの数の映画を観てますよね」
そう直希が尋ねると、山下は「ちょっと待ってね」そう言って、箪笥から大学ノートを何冊も取り出した。
ノートを開くと、これまでに観た映画に関するデータが納められていた。 公開された年、主要スタッフ、主要キャスト。そして解説と感想がびっしりと書かれていた。「山下さん、これって」
「うふふふふっ。私の一番の趣味だから。映画館に行ったのは勿論だけど、ビデオ屋さんで借りたのも、調べて書いてるのよ」
「まいったな、これは……」
直希が提案しようとしていたことを、山下は既にやっていた。別のことを考えないといけないな、そう思った直希の頭に、ふとひとつの案が浮かんだ。
「山下さん、パソコンは使えますか?」
「パソコン……調べ物とかにはよく使ってたわ。でも専門的なことは勿論無理よ」
「と言うことは、キーボードを打つことは」
「それなら問題ないわよ。昔、タイプを打つ仕事をしてたから」
「それだ! それだよ山下さん!」
「それって、どうしたの直希ちゃん、そんなに興奮して」
「山下さんはこんなにたくさんの映画を観て、その一作一作をこうしてまとめて残してる。山下さん、これをネットで公開しよう」
「ネットでって……ブログとかかしら」
「ブログ、分かるんですね。ますます話が早い。そうです山下さん、ブログを立ち上げましょう」
「でも……私、難しい操作は分からないわよ」
「つぐみさん、おかえりなさいです」 戻ってきたつぐみを、あおいと菜乃花が出迎えた。「つぐみさん、その……お疲れ様でした」「あおい、菜乃花、ただいま。今日はありがとね」「いえいえ、そんなそんなです。つぐみさんの方こそ、本当に大変だったと思いますです」「それで? 夕食の準備は問題なく」「あ、はい。おばあちゃんと山下さんも手伝ってくれてますので」「お二人にお礼、言わないとね」「それにその、節子さんも手伝ってくれてます」「節子さんが?」「はいです。節子さんがあんなにお料理出来るなんて、びっくりしましたです」「そうなんだ……ふふっ、でもこういうのって、いいわね」「私もそう、思いました……やっぱりここは、みんなの家なんだなって思えて」「それでつぐみさん、直希さんと文江さんは」「直希と文江おばさんは今日、病院に泊まるみたいよ。文江おばさんはともかく、直希には戻るように言ったんだけどね。聞かなくて」「そう、ですか……あのその、直希さん、大丈夫なんでしょうか」「まあ、かなりショックは受けてたわ。でも栄太郎おじさんの容態も安定してるし、明日には戻って来るんじゃないかしら。いつもの元気な顔でね」 そう言って笑顔を向けると、あおいと菜乃花も安堵の表情を浮かべた。「それでなんだけどね、夕食、二人分追加してほしいの」「二人分ですか」「ええ。お父さんともう一人、お客さんが来ることになってるの。無理なら外で食べてから来るって言ってたけど」「いえ、直希さんと文江さんの分も作ってましたので、問題ないです」「つぐみさんつぐみさん、お客さんってどなたなんですか」「ええっとね……私と直希もお世話になった人なんだけど、偶然病院にいて、栄太郎おじさんを診てくれた人なの」
「でも、よく心筋梗塞だって気付けたね。新藤さんぐらいの容態だと、見落としてしまう医者も多いと思う。新藤さん自身だって、大袈裟だって文句言ってたぐらいだし」「ははっ……すいません」「診断を出したのは、やっぱり東海林先生なのかい?」「いえ、その……」「……ん?」「私が……診断しました……」「つぐみちゃんが? それってまさかつぐみちゃん、本当に医者になったのかい?」「は、はい、何とか……」「そうなんだ……いや、これはびっくりした。つぐみちゃん、夢を叶えたんだね。おめでとう」 つぐみの手を取り、須藤が大袈裟に喜ぶ。「お……お兄ちゃん、恥ずかしいよ……」「ははっ、ごめんごめん。じゃあ今は、先生のところで?」「はい、今は助手として働いてます。あと……直希のところと」「直希くんのところ……直希くんも医者になったのかい?」「いえいえ、俺の頭じゃ無理ですよ。俺はその、簡単に言えば老人ホームをやってまして」「老人ホーム……そうなのか、これもまたびっくりだ。直希くんが介護の道に」「じいちゃんばあちゃんも、そこで一緒に暮らしてるんです。それで今日、つぐみが診てくれて」「なるほど、そうだったんだ……でもつぐみちゃん、よく気付けたね」 頭を撫でると、つぐみは赤面してうつむいた。「たまたま、です……栄太郎おじさんの容態を聞いて、そして最近のバイタルの様子から、もしかしたらって思って」「見事だよ、つぐみちゃん。先生もきっと喜ぶよ」「…&
栄太郎は病院に到着すると、ただちに集中治療室に搬送された。 そこには6床のベッドが設置されていた。ベッドの周りには物々しい器具機材があり、足元には、天井からモニターが設置されていた。 着替えを済ませ、胸や足首には心電図を計測するための電極がつけられた栄太郎は、「こんな大袈裟な」と、憮然とした表情で天井を見つめていた。 しばらくして医師の説明を受けることになったのだが、文江は「ナオちゃんにまかせるよ。私はここで、おじいさんといるから」そう言って力なく笑った。 * * *「……それで先生、じいちゃんの具合は」 診察室に通された直希とつぐみは、モニターを見つめる医師の言葉を待った。 黒縁眼鏡をかけたその医師は、30代半ばぐらいの青年だった。「うん……大丈夫、心配ないよ」 そう言って、医師が二人の方を向く。「ほ、本当ですか」「新藤さんの症状は、心筋梗塞で間違いありません。ですがまだ初期の段階でしたので、手術の必要もありません。カテーテル治療で問題ないでしょう。集中治療室の方も、三日ほどで出られます。まあ、入院二週間ってところですね」「よかった……本当によかった……」 直希が安堵の声を漏らし、うつむいた。つぐみもほっとした表情を浮かべ、直希の肩を抱く。 こんなに肩を震わせて……直希にとって栄太郎がどれだけ大切な存在か、つぐみは改めて思い知らされたような気がした。そして、その栄太郎を救えたことに安堵した。 二人の様子を眺めながら、医師はカルテを置くと、頭を掻きながら苦笑した。「それで、なんだけどね……身内の方がこんなことになったんだ、仕方ないとは思うし、それにまあ、10年も経ってるから分からないかもしれないんだけど……つぐみちゃん、直希くん。まだ分からないかな、僕のこと」
それは突然だった。 スタッフと入居者でクリスマスの飾り付けをしている時のことだった。「おじいさん、大丈夫ですか」 文江の声につぐみが振り返ると、壁際でうずくまり、胸を押さえている栄太郎の姿が目に入った。 つぐみの脳裏に、先日の明日香の言葉がよぎる。「栄太郎おじさん、どうかしたんですか」「つぐみちゃん……いえね、さっきからおじいさん、ずっとこんな調子なのよ。調子が悪いんなら休んでいればって言ったんだけどね、大丈夫だ、大袈裟にするなって聞かなくて」「ちょっといいですか」 つぐみがそう言って、栄太郎の脈を診る。いつもより早めの脈拍に、つぐみが声をあげた。「あおい、鍵開いてるから、私の部屋から血圧計、持ってきて頂戴」「は、はいです、分かりましたです!」 つぐみの緊張感ある声に、あおいがそう言ってつぐみの部屋へと入っていった。 クッションを枕代わりにして、栄太郎を床に寝かせたつぐみ。その光景に入居者たちも手を止め、集まってきた。「いやいや……つぐみちゃん、そんな大袈裟にしないでくれるかな。ちょっと痛むだけなんだから」 入居者たちに囲まれた栄太郎が、そう言って苦笑する。しかしその表情から、かなり痛んでいるように思えた。 そんな栄太郎の頭を優しく撫でながら、つぐみは静かに、しかし厳しい口調で言った。「はい、勿論です。でも栄太郎おじさん、少しだけごめんなさい、私の言う通りにしてほしいんです」「……つぐみちゃんがそう言うなら……仕方ないか」「つぐみ……じいちゃん、病気なのか」 青ざめた表情で、直希がそうつぶやく。「……大丈夫かどうか、私がちゃんと調べてあげるわよ。ほら、そんな顔しないの」「じいちゃん……どこか悪いのか」「お
「まあでも、本当よかったね。節子さんもこんなに穏やかになってさ」「これもみなさんのおかげです」「そう言って自分以外の手柄にしちゃうダーリン、ほんと惚れ直しちゃう!」「うわっ! だ、だから明日香さん、ちょっと加減を」「いいじゃんいいじゃん、久しぶりなんだし」「いやいや、久しぶりとかの問題じゃなくてですね」「賑やかな声がしてると思ったら、やっぱり明日香ちゃんだったか」「栄太郎さんに文江さん。こんにちは、お久しぶりです」「うふふふっ、明日香ちゃんって本当、スキンシップが好きよね」「いやいやばあちゃん、さらっとこれを日常にしないでよ。笑ってないで助けてくれって」「うふふふっ。でも明日香ちゃんがいない間、ナオちゃんも寂しそうだったじゃない。明日香さん、まだ帰省中だよねって何度も聞いて」「え」「え」 文江の言葉に直希は赤面し、明日香も耳まで赤くして固まってしまった。「……」「あ、あのその、明日香さん、今のは」「ダーリーン!」「どわっ! 明日香さん落ち着いて、こんなところで押し倒さないで」「だってだってー。そんなこと聞いちゃったら、こうしない訳にはいかないじゃん」「いやいや、ここ玄関だから。それにここは高齢者専用住宅で」「みぞれしずく! ダーリンを動けないようにするのだ! 今日こそはあんたたちのパパ、あたしのモノにしてあげるからね!」「分かったー」「はーい」 そう言って、二人が直希の両手をつかむ。「やめてやめて本当……って節子さんにあおいちゃんまで、笑ってないで助けてよ」「ふふっ、ごめんなさいです直希さん。でも、何て言ったらいいんでしょう、本当にあおい荘って、いいところだなって思って」「いいところさね、ここは」「……感傷は後でいいから、助けてってば
「直希さん直希さん、どうかしましたですか。何だか騒がしいようですが……って、えええええええっ?」 玄関先に来たあおいが見た物。それは取っ組み合いをしている明日香と節子の姿だった。「節子さん節子さん、何してるんですか……って明日香さんも」「ああアオちゃん、毎度です。今ちょっと取り込み中なんだ、あはははははっ」「節子さん節子さん、やめてくださいです」「いいよ、あおいちゃん。悪いけどちょっとだけ、好きにさせてもらえないかな」「直希さん……どうしてですか」「いや、最初は俺も驚いたんだけどね。何て言うか……こういうイベントもありかなって」「イベントって、そんな」「直希、何かあったの」「あのその……どうかしたんですか」 そう言って現れたつぐみと菜乃花も、その光景に唖然とした。「いい加減にしてよね、このアンポンタンはっ!」 髪を引っ張られる明日香がそう叫び、節子の腕を握る。節子はそんな明日香の言葉にも怯まず、明日香の髪を引っ張る。「ちょっと直希、なんで止めないのよ」「あ……節子さん、その……落ち着いてください」「つぐみも菜乃花ちゃんも、ちょっとだけ見ていてくれないかな」「見ていてって……あなた正気? 明日香さんがその気になったら、節子さんなんて」「大丈夫だよ。ほら、明日香さん、ちゃんと手加減してくれてる。流石、喧嘩慣れしてるよな」「……なんであなたって、そう能天気なのよ」 つぐみがそう言ってため息をついている間に、明日香が態勢を入れ替えて節子の上に乗った。「やるじゃないの。いくら手を抜いてるとはいえ、あたしがマウント取られるなんてね。でもどう? これでも反撃出来る?」